医療ソーシャルワーカーとして患者さんやご家族の相談・援助に携わっている仲江翔太さん。その原点は5歳の時にり患した「急性リンパ性白血病」の闘病経験にありました。つらい治療を経て完治したものの、中学生の頃になると自身の闘病体験にコンプレックスを抱くようになります。そんな仲江さんが、転機となる出来事にめぐりあい、その後、医療ソーシャルワーカーという仕事に就くまでの軌跡について、お話をお伺いしました。
5歳で急性リンパ性白血病と診断されたそうですね。どんな入院生活を送ったのですか。
入院して抗がん剤治療を受けるにあたり、母は私に病気を理解したうえで、一緒に戦っていきたいと思ったそうです。母の意を汲み、主治医が白血病についてかみ砕いて説明をしてくださり、「自分の体の中にある悪いものを頑張ってやっつけよう」と小さいながら治療に向き合いました。ところが、抗がん剤治療を始めるとだるさや吐き気に襲われます。体への負担が大きく、気持ちが沈むこともありました。一度だけ、かんしゃくを起したことがあります。抗がん剤治療によって免疫力が落ちるため、ベッドを透明なカーテンで仕切って無菌状態にするのですが、その数日間は家族とも、入院仲間とも会えません。周りの世界と切り離されて孤独感が限界に達した私は、そばにあったおもちゃを手あたり次第投げて、「もう死なせてくれ!」と暴れたのです。そんな入院生活の支えとなったのは、4人部屋で一緒だった年下の友達です。私は一人っ子なので、弟や妹のような存在でした。みんな決して楽観視できない病状だったのですが、彼らの明るさに助けられていました。
退院後はどんな生活だったのですか。
4か月後に退院ができ、標準治療を経て寛解することができました。退院後はステロイド剤などの投薬治療を行うため、小学校にあがってからも通院が必要でした。体力も落ち疲れやすくなっていたので、体育はほとんど見学で、学校も休みがちでした。
小学校では満足に運動ができなかったので、中学校に進学すると卓球部に入部し練習に打ち込みました。そんなある日、なかなか上達しない私を、同じ部活の同級生が茶化したんです。「そんなんやから白血病になるねんで」と。軽い気持ちで言ったのだと思いますが、この言葉で私は「普通の子とはちゃうねんな」と、健康な子との違いを意識するようになりました。中高生時代の男子は、運動能力がものをいう世界。運動が苦手なくやしさやみじめさを白血病のせいにして、「病気さえしなければ」と後ろ向きな気持ちでいっぱいでした。
小学校では満足に運動ができなかったので、中学校に進学すると卓球部に入部し練習に打ち込みました。そんなある日、なかなか上達しない私を、同じ部活の同級生が茶化したんです。「そんなんやから白血病になるねんで」と。軽い気持ちで言ったのだと思いますが、この言葉で私は「普通の子とはちゃうねんな」と、健康な子との違いを意識するようになりました。中高生時代の男子は、運動能力がものをいう世界。運動が苦手なくやしさやみじめさを白血病のせいにして、「病気さえしなければ」と後ろ向きな気持ちでいっぱいでした。
そんな気持ちが変わったきっかけは何だったのですか。
高校1年の3学期のことです。担任の先生から、隣のクラスの子が急性骨髄性白血病になったと告げられました。この言葉を聞いた瞬間、全身に電流が走ったような衝撃を受けました。そして彼のために何かしないといけないと強く思ったのです。私は人のために何かしようというタイプではなかったのに、今でも不思議に思います。
帰ってすぐ母に、彼のために何かしてあげられないか相談しました。母は私の気持ちに賛同して、彼に会いに行こうと提案してくれました。そして2週間後には彼のクラスメイトからの寄せ書きや千羽鶴を持って、実家のある富山県で入院生活を送っていた彼と対面することができたのです。自分がこれからどうなっていくのか、病気への漠然とした不安、抗がん剤治療のつらさ……、彼とは同じ病気になったもの同士にしかわからない話をすることができ、「仲江君だから通じ合えた。いてくれてよかった」と言ってもらえました。生まれて初めて人のために何かしたいと思い行動したことで、自分の中で何かが大きく変わったという手ごたえがありました。
帰ってすぐ母に、彼のために何かしてあげられないか相談しました。母は私の気持ちに賛同して、彼に会いに行こうと提案してくれました。そして2週間後には彼のクラスメイトからの寄せ書きや千羽鶴を持って、実家のある富山県で入院生活を送っていた彼と対面することができたのです。自分がこれからどうなっていくのか、病気への漠然とした不安、抗がん剤治療のつらさ……、彼とは同じ病気になったもの同士にしかわからない話をすることができ、「仲江君だから通じ合えた。いてくれてよかった」と言ってもらえました。生まれて初めて人のために何かしたいと思い行動したことで、自分の中で何かが大きく変わったという手ごたえがありました。
彼は無事に学校に戻って来れたのですか
8か月ほどして、治療が一段落ついた彼が高校に戻ってきました。彼の姿が見えた瞬間、私は涙を止めることができませんでした。これで治療が終わったわけではないし、これからも治療は続く、長い道のりであることを冷静に理解していながらも、それを超えた安堵感や喜びで胸が一杯になったのです。
それからは、病気に対する考え方がこれまでと180度変わりました。これまで、私は白血病のせいで普通の生活が送れなかったと病気を否定的にとらえていたのですが、彼との出会いによって、白血病の闘病体験に心から感謝できるようになりました。そして白血病を経験した自分だからできることがある、そこに自分がいる意味や価値があると確信したのです。
ただ彼は、出席日数が足りず私たちより1年遅れて卒業することになりました。義務教育である中学生までは院内学級があるのですが、高校生には教育をサポートする仕組みがありません。長期入院により勉強が遅れるだけでなく、これまで一緒に過ごしていた同級生と一緒にその後の高校生活を送ることができないのはつらいことです。これは、現在医療ソーシャルワーカーとして子どもたちを支援する中で大きな課題だと認識しており、勤務先の病院が全国に先駆けて取り組んでいるテーマにもなっています。
それからは、病気に対する考え方がこれまでと180度変わりました。これまで、私は白血病のせいで普通の生活が送れなかったと病気を否定的にとらえていたのですが、彼との出会いによって、白血病の闘病体験に心から感謝できるようになりました。そして白血病を経験した自分だからできることがある、そこに自分がいる意味や価値があると確信したのです。
ただ彼は、出席日数が足りず私たちより1年遅れて卒業することになりました。義務教育である中学生までは院内学級があるのですが、高校生には教育をサポートする仕組みがありません。長期入院により勉強が遅れるだけでなく、これまで一緒に過ごしていた同級生と一緒にその後の高校生活を送ることができないのはつらいことです。これは、現在医療ソーシャルワーカーとして子どもたちを支援する中で大きな課題だと認識しており、勤務先の病院が全国に先駆けて取り組んでいるテーマにもなっています。
創価大で社会福祉を専攻したのはなぜでしょうか。
進路を考えた時、大学で何を学ぶか迷っていました。闘病の経験から、看護学部に行きたいという思いがある一方で、社会福祉を学びたい気持ちもありました。実は、入院していた時に支えとなってくれていた同室の仲間3人は、数年の間に再発したり移植がうまくいかなかったりして、全員亡くなっていました。3人に応えたいという思いがありながら、看護学部に行かないのはその子たちを裏切ることになるのではないかという葛藤があったのです。他方で、私は母子家庭で育ちました。高校には障害を持つ級友がいて、社会にはさまざまな困難を抱えている人がいることも体感していました。そこでまずは福祉の世界に入り、経験を積んで、それでも必要なら看護の道に行くこともできると考え、社会福祉士を学ぼうと決心したのです。
大学生活で印象に残っていることを教えてください。
現在の自分につながる学びがありました。それが社会福祉士の資格取得に必要な現場実習です。生活保護、高齢者、障害者、児童の4分野で実習したのですが、高齢者のデイサービス施設ではその面白さがまったくわかりませんでした。訪問介護の事業所を運営している母にそう伝えると、「介護の仕事は、その方の人生の最終章で家族に一番近い登場人物として、人生の総仕上げのお手伝いをすること。1日行ったくらいではわからない」という言葉が返ってきたのです。この言葉が、就職の決め手になりました。今後、社会福祉士として相談業務を行ううえでも、介護現場で人とじかに触れ合う経験が必要だと考え、デイサービス施設に就職しました。
そこで、私の原点となるがん闘病中の利用者さんとの出会いがありました。私自身の闘病経験から、その方の気持ちが深く理解できましたし、実習時に母から言われた言葉も腹落ちしたのです。そして病気を抱えている方の支援をしたいという気持ちが芽生えました。これからのキャリアを考える過程で、子どものころ入院していた病院で医療ソーシャルワーカーの募集をしていないか調べてみたところ、中途採用職員を募集していたのです。そして、「お世話になった病院に恩返しをしたい」という私の思いを評価してもらい、医療ソーシャルワーカーとして勤務することになりました。
そこで、私の原点となるがん闘病中の利用者さんとの出会いがありました。私自身の闘病経験から、その方の気持ちが深く理解できましたし、実習時に母から言われた言葉も腹落ちしたのです。そして病気を抱えている方の支援をしたいという気持ちが芽生えました。これからのキャリアを考える過程で、子どものころ入院していた病院で医療ソーシャルワーカーの募集をしていないか調べてみたところ、中途採用職員を募集していたのです。そして、「お世話になった病院に恩返しをしたい」という私の思いを評価してもらい、医療ソーシャルワーカーとして勤務することになりました。
医療ソーシャルワーカーとはどういう仕事ですか。
患者さんやご家族は退院後の療養先、仕事との両立、生活費や医療費などさまざまな悩みを抱えています。医療ソーシャルワーカーは、患者さんが安心して治療に専念し、社会復帰後も安心して暮らせるよう、在宅医療や介護サービス等と連携しながら、課題解決に向けた調整や支援をしています。赤ちゃんから高齢の方まで、患者さんの年齢も抱えている問題も幅広く、支援も多岐にわたるため、まだ学ぶことばかりです。
仕事をするうえでどんなことを心がけていますか。
知識や専門性は、経験と自分の努力で積み上げていくものです。そのうえで、自身の闘病経験を生かし、誰よりも目の前の患者さんに心を寄せるソーシャルワーカーでありたいと考えています。患者さんは病気で大変な思いをされていますし、残された時間がわずかな患者さんとかかわることも少なくありません。プロとしての距離感は保ちつつ、患者さんの心の揺れを受け止めたい。「仲江さんと出会えてよかった」と言ってくださった方。一瞬一瞬のかかわりがその方の人生を形づくることになるため、後悔のないものにしたいという思いで日々業務に当たっています。
そして将来は、世界に挑戦したい。海外の大学院でソーシャルワークの修士号を取得し、世界で働く土台をつくりたいと考えています。
そして将来は、世界に挑戦したい。海外の大学院でソーシャルワークの修士号を取得し、世界で働く土台をつくりたいと考えています。
創価大学へ進学を考えている後輩たちにメッセージをお願いします。
創価大学は自分の可能性を広げてくれる場所です。入学当初は社会福祉士の資格を取ることしか考えていなかった私が、いろんなことに全力投球している仲間に刺激を受けて、自分も挑戦したいと思うようになりました。そして、創大祭で記念行事に取り組んだり、学生自治会の活動をしたりするようになり、気づいたら入学当初に想定していたのとはまったく違う学生生活を送っていたのです。悩みや壁に突き当たったときに、親身に話を聞いてくれた仲間は大切な宝です。皆さんもぜひ創価大でそんな4年間を送ってください。
PROFILE
仲江 翔太 Shota Nakae
[好きな言葉]
The most personal is the most creative (Martin Scorsese)
[性格]極度のマイペース
[趣味]映画・音楽鑑賞。中でも「スパイダーマン」などのアメコミが好き。
[最近読んだ本]15歳からの社会保障/横山北斗
ページ公開日:2023年08月30日