歴史学は「推理小説みたいなもの」と、その奥深さと魅力を分かりやすく語る。例えば鎌倉時代。今に生きる誰もが見たことも触ったこともない過去の事実。それだけに物的証拠が大切で、いかに情報収集し、周りを固め読み解いていくか。それがないと妄想になる。解釈に間違いもあり、書き換えられることもあり得る。しかし、過去に遡らないと「正真正銘の考え方は導き出せない」と力説する。織田信長と源頼朝の対比、俳聖・松尾芭蕉が詠んだ句の中の「兵どもが夢の跡」の背景と独自の視点は、まさに目から鱗だった。
鎌倉幕府の成立年は「いい国(1192年)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで知られますが、最近、1185年説が有力視されています。
歴史学は、消えてしまった過去の事実を研究対象としています。それは今生きている人が誰も見たこともない、触ったこともないそういう消え去った事実です。しかし、誰かが何かを行っていた。物を作っていたわけです。そのこと自体を否定してしまったら話になりません。過去に何かしらあった、それを前提として、現在の人間が見ることも聞くことも触ることもできない事実を考える、あるいは想像する、推理するという学問が歴史学です。
したがって、俗な言い方をすると推理小説みたいなものです。推理する時に警察でも探偵でもそうですが、必ず物的証拠が必要になりますよね。物的証拠がなければただの妄想です。過去はこうだっただろうという、思いたいように思う妄想に過ぎません。しかし、いくつかの物的証拠があれば、それらを比べたり並べたりすることによって、犯人を導き出すことができます。
したがって、俗な言い方をすると推理小説みたいなものです。推理する時に警察でも探偵でもそうですが、必ず物的証拠が必要になりますよね。物的証拠がなければただの妄想です。過去はこうだっただろうという、思いたいように思う妄想に過ぎません。しかし、いくつかの物的証拠があれば、それらを比べたり並べたりすることによって、犯人を導き出すことができます。
そういう情報を集積することにより周りを固めていくことが大事だと…。
過去の出来事は、今の人は誰も見たことがないので、推理するしかありません。もちろん、間違えることもある。例えば、戦前の人と21世紀の人とでは、科学的な知識も違いますし人権思想も違います。人間とは何か、社会とは何かというその考え方、世界観が違いますから、同じ史料を見ても受け取り方が変わってきます。歴史学は絶えずその作業を行いますので、変わり得るわけです。間違ったところは修正していかなければいけません。
そこで、今のところはここまで分かっている、おそらくこれが過去の、例えば800年前の時代に起こったことだろうと推理しているだけであって、それは確定したものではないのです。21世紀初頭の歴史学者はここまで分かっているけれども、それが50年後になり、100年後になり、22世紀になって鎌倉時代のことを推理してみたら違っていた、ということも十分あり得ます。つまり、唯一絶対のものは歴史学にはないのです。
時はつながっていますから、過去の、例えば800年前のことがなければ現在もないわけです。これから自分がどう生きるべきかとか、世の中とは、人間とは何だろうかと考える際には、やはり必ずどこかまで遡らないと、本物の、正真正銘の考え方はできないはずです。ですから、歴史学という学問が必要なのです。
そこで、今のところはここまで分かっている、おそらくこれが過去の、例えば800年前の時代に起こったことだろうと推理しているだけであって、それは確定したものではないのです。21世紀初頭の歴史学者はここまで分かっているけれども、それが50年後になり、100年後になり、22世紀になって鎌倉時代のことを推理してみたら違っていた、ということも十分あり得ます。つまり、唯一絶対のものは歴史学にはないのです。
時はつながっていますから、過去の、例えば800年前のことがなければ現在もないわけです。これから自分がどう生きるべきかとか、世の中とは、人間とは何だろうかと考える際には、やはり必ずどこかまで遡らないと、本物の、正真正銘の考え方はできないはずです。ですから、歴史学という学問が必要なのです。
歴史上のリーダーから一押しの人物を挙げるなら織田信長と答える人が多いです。
一般的には、人気があるのは何と言っても織田信長です。今春、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組に出演した際、プロデューサーが歴史の番組を作る時にどうしても信長に偏ってしまう、そういう傾向があると話していました。
信長に関しては、近年、研究が進み、良く知られているホトトギスの俳句「鳴かぬなら殺してしまえ…」というのは、実はそうではなかったと考えられるようになってきています。これも、歴史学では、ものの見方や史料の解釈の仕方によってイメージが変わってくるという好例です。実は信長も、その時の体制というものを非常に重視していました。比叡山を焼き討ちしたり、光秀に裏切られて本能寺の変で自害したりと、派手なところがあるので誤解されてしまった部分があるのでしょう。
信長に関しては、近年、研究が進み、良く知られているホトトギスの俳句「鳴かぬなら殺してしまえ…」というのは、実はそうではなかったと考えられるようになってきています。これも、歴史学では、ものの見方や史料の解釈の仕方によってイメージが変わってくるという好例です。実は信長も、その時の体制というものを非常に重視していました。比叡山を焼き討ちしたり、光秀に裏切られて本能寺の変で自害したりと、派手なところがあるので誤解されてしまった部分があるのでしょう。
先生が研究されている源頼朝について教えてください。
鎌倉幕府を開き、初めての武家政権を樹立したのが源頼朝です。武家の時代を切り開いた人物と、高く評価はされていますが、逆に、単なる成功者であり、信長に比べると劇的な部分が少ないのではないかと評されることもあります。
著書の『源頼朝と鎌倉』(吉川弘文館、2016年)でも書きましたが、彼は単なる成功者ではありません。なぜかというと、たった14歳、今でいうと中学生の頃に父親を殺され、一人だけ家族から引き離されて、生まれ育った都から遠く離れた最果ての地、そういう感覚が都人にはあったのですが、伊豆の国に流罪になる。
周りには当然の如く、頼朝を監視する敵方の人達がいるわけです。兄弟とも別れて、ごくわずかな身の回りの世話をする家来が従っていただけです。周囲は皆、敵です。20年間雌伏している間、このまま自分の人生は終わってしまうだろう、都から遠く離れた片田舎で一生を平凡に終えるのだ、そうした思いもあったと思います。
しかし、世の中が大きく変わり始める。そのタイミングに彼は10代、20代を過ごすことになった。これは必然ではなく、いわば偶然です。歴史というのは偶然と必然が複雑に絡み合っています。こういう能力があるからこういう結果になったという必然もありますが、たまたま何か事故や事件が起きたから変わってしまったという具合に、偶然性によっても歴史は左右されるんですね。
著書の『源頼朝と鎌倉』(吉川弘文館、2016年)でも書きましたが、彼は単なる成功者ではありません。なぜかというと、たった14歳、今でいうと中学生の頃に父親を殺され、一人だけ家族から引き離されて、生まれ育った都から遠く離れた最果ての地、そういう感覚が都人にはあったのですが、伊豆の国に流罪になる。
周りには当然の如く、頼朝を監視する敵方の人達がいるわけです。兄弟とも別れて、ごくわずかな身の回りの世話をする家来が従っていただけです。周囲は皆、敵です。20年間雌伏している間、このまま自分の人生は終わってしまうだろう、都から遠く離れた片田舎で一生を平凡に終えるのだ、そうした思いもあったと思います。
しかし、世の中が大きく変わり始める。そのタイミングに彼は10代、20代を過ごすことになった。これは必然ではなく、いわば偶然です。歴史というのは偶然と必然が複雑に絡み合っています。こういう能力があるからこういう結果になったという必然もありますが、たまたま何か事故や事件が起きたから変わってしまったという具合に、偶然性によっても歴史は左右されるんですね。
その偶然性について、詳しく教えてください。
頼朝はもちろん能力のある人物でしたけれども、そのように10代の中学生ぐらいの時に流罪になり、政治犯として隔離されてしまう。心細かったはずですよ。しかし、社会の要請というものがたまたま彼に及んできた。それによって、周りに家来がほとんどいないにもかかわらず、頼朝は立ち上がらざるを得なくなったのです。挙兵当初の戦いでは大敗を喫します。石橋山の戦い(1180年)で命を落とす瀬戸際まで追い詰められました。ですから、彼の挙兵というのは、当たり前のことでも何でもなかったですし、予定調和的に最初から勝利や成功が決まっていたわけでもない。様々な偶然と必然が作用し、ドラマチックな展開を経て武家政権、鎌倉幕府の樹立にこぎつけたのです。
源義経最期の地とされる古戦場で、俳聖・松尾芭蕉は「夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡」と詠みました。
奥州合戦(1189年)についても、ここ20年ぐらいの間に研究が進展しました。頼朝は軍事的に制圧することだけを目指していたのではありません。頼朝の祖先に源頼義という人がいます。その息子が源義家。「八幡太郎義家」と呼ばれた義家の方が有名ですが、平安末期から鎌倉時代においては、義家よりも頼義の方が源家の先祖の将軍ということで高く評価されています。
頼義は、前九年の役という11世紀の半ばぐらいに陸奥の安倍氏を滅ぼした戦いをやっています。その時に奥州平泉の方に行くわけです。そこで東国武士達と主従関係を結び、出羽の清原氏の来援を受けて安倍氏を滅ぼすところまで持っていきます。それが源氏発展の基礎になりました。
頼朝は奥州合戦の時には既に平家を滅ぼしています。非常に大きな軍事力を現実に手中にしていたわけです。奥州藤原氏の軍事力とは雲泥の差があります。そうした中で、頼朝の圧力に耐えかねた藤原泰衡が義経を自害に追い込むという事件も起こりました。頼朝にすれば、それだけ力の差があるわけですから、軍事的に制圧するだけでは物足りません。むしろ今後のことを考えて、祖先の頼義がやったのと同じようなことを頼朝もできる。そういう器であり、その血統を受け継いでいるのだということを多くの人々に、つまり部下の御家人達にも朝廷の人々にも強く印象付けるという、いわば政治的な演出が必要だったのです。そして、それを実行に移したのが奥州合戦でした。
滅ぼされる側からすれば、そんなことはどうでもいいことだったと思いますが、頼朝自身はそういう政治的演出に力を入れていました。これは唯一の軍事権門としての地位を頼朝が確立するための方法の一つだったのです。
頼義は、前九年の役という11世紀の半ばぐらいに陸奥の安倍氏を滅ぼした戦いをやっています。その時に奥州平泉の方に行くわけです。そこで東国武士達と主従関係を結び、出羽の清原氏の来援を受けて安倍氏を滅ぼすところまで持っていきます。それが源氏発展の基礎になりました。
頼朝は奥州合戦の時には既に平家を滅ぼしています。非常に大きな軍事力を現実に手中にしていたわけです。奥州藤原氏の軍事力とは雲泥の差があります。そうした中で、頼朝の圧力に耐えかねた藤原泰衡が義経を自害に追い込むという事件も起こりました。頼朝にすれば、それだけ力の差があるわけですから、軍事的に制圧するだけでは物足りません。むしろ今後のことを考えて、祖先の頼義がやったのと同じようなことを頼朝もできる。そういう器であり、その血統を受け継いでいるのだということを多くの人々に、つまり部下の御家人達にも朝廷の人々にも強く印象付けるという、いわば政治的な演出が必要だったのです。そして、それを実行に移したのが奥州合戦でした。
滅ぼされる側からすれば、そんなことはどうでもいいことだったと思いますが、頼朝自身はそういう政治的演出に力を入れていました。これは唯一の軍事権門としての地位を頼朝が確立するための方法の一つだったのです。
「夢の跡」について、解説をお願いいたします。
頼朝にとっては、自分が政治的にも軍事的にも他のあらゆる日本の人達よりも超越した唯一の軍事権門になることが夢でした。それを果たしたわけです。頼朝に従った武士達も、命を懸けて戦い、勲功をあげたり傷を負ったりしたことで恩賞にあずかりました。御恩として土地を賜るという夢を叶えたわけです。
江戸時代になりますと、松尾芭蕉が『奥の細道』のような俳句を詠みます。その時にはもう鎌倉幕府はありません。合戦をしていた人々もいません。室町幕府も滅んでいます。江戸幕府の太平の世になっていて、奥州で合戦があるわけではありません。
したがって、戦いがあった奥州の地は夏草の生い茂った野原に変わり果てている。そこに、武士達が恩賞を得ようと命を懸けて戦った生々しい映像を、恐らくは芭蕉は想像力をはたらかせて思い描いたのだと思います。
江戸時代になりますと、松尾芭蕉が『奥の細道』のような俳句を詠みます。その時にはもう鎌倉幕府はありません。合戦をしていた人々もいません。室町幕府も滅んでいます。江戸幕府の太平の世になっていて、奥州で合戦があるわけではありません。
したがって、戦いがあった奥州の地は夏草の生い茂った野原に変わり果てている。そこに、武士達が恩賞を得ようと命を懸けて戦った生々しい映像を、恐らくは芭蕉は想像力をはたらかせて思い描いたのだと思います。
歌舞伎狂言『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』は、正月のめでたい出し物にふさわしい内容となっています。
『寿曽我対面』は、頼朝の時代に、曽我十郎祐成・五郎時致という若い兄弟が、富士の裾野の巻狩で父の敵の工藤祐経を討った敵討ち事件をもとにした文学作品『曽我物語』から発展した歌舞伎の作品です。敵討ち事件という事実が元にあり、それがまず文学作品化され、次いで芸能化されました。室町時代には能に作られ、さらに江戸時代には歌舞伎狂言という形に発展していくという、千年単位ぐらいの大きな流れがあります。
実際に事件が起きたのは1193年(建久4年)、頼朝が征夷大将軍になった次の年です。その少し後ぐらいから少しずつ文学作品化され、広く読み継がれ、今でも歌舞伎の曽我狂言として上演されています。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指示で、仮名手本忠臣蔵とか曽我狂言とか敵討ちものは禁止されてしまいました。
その通りです。封建的・軍国主義的だということで、上演が禁止された時期がありました。しかし、フォービアン・バワーズさんという、日本を理解し愛するアメリカ人の尽力で上演が可能になりました。同様の理由で、学校教育の場からも排除されました。ところが、歌舞伎の場合と違って、教育現場では21世紀の現在に至っても排除されたままです。この点については、あらためてしっかりと考えるべきだと思います。思想的に右寄りか左寄りかという問題とは全く関係がありません。日本人が生み出し、千年近くにわたって享受し、脈々と受け継いできた価値ある伝統文化、芸術的な遺産を教育の場で取り上げず、今後の日本を担う子供達に伝えていかないというのはいかがなものか、ということです。
それはそれとして、曽我狂言の元になったのは敵討ち事件という事実です。ところが、その事実がはっきりと分からないように隠蔽された可能性があります。分からないことや謎があまりにも多いのです。謎が多いとどうなるかというと、芸能作品化しやすくなります。いろいろとこねくり回しやすいのです。まず、鎌倉時代の文学作品の段階で仏教思想が入った物語、真名本の『曽我物語』が作られます。そこに弟の五郎が兄の十郎よりも豪胆である、といった人物造形がみえています。
室町時代になってから、さらにいろんなエピソードが加えられて、新たにアレンジされた仮名本の『曽我物語』が作られるようになると、舞台芸術化する動きも起こってきます。鎌倉時代から人気があったものですから、それを能のような形にしたいという要望が出てきたわけです。それで能が作られます。まだ仮名本の『曽我物語』が作られるようになってそれほど時が経ってませんし、室町時代の写本もそれほど熟したものになっていないものですから、鎌倉時代にできた人物造形をある程度そのまま受け継いでいます。
確かに弟の五郎は豪胆だけれども、能では兄の十郎が主役になった作品が目立ちます。戦国時代末期になると、秀吉も家康も能が大好きで、自らも舞台に立って能を舞ったりしました。このように、能を享受したのは主に武士でした。江戸時代になりますと、今度は庶民の人気を集め、庶民が鑑賞する、そういう芸能として歌舞伎や人形浄瑠璃ができてきます。
さらに、もっと分かりやすく、要するに教養人じゃなくて、一般大衆に受けるようなアレンジをもっと加える、というようなことが起こってきます。
弟の五郎が豪胆だということを究極まで突き進める、そういう芸が元禄時代に生まれます。『寿曽我対面』というのは、それの一つの典型です。五郎のような豪胆さをさらに押し進め、勇猛ぶりを見せる芸が荒事(あらごと)です。見栄を切って、どちらかというと、私も歌舞伎座で見たことがありますが、駄々っ子のような演技をするのです(笑)。
豪胆というよりも思わず笑ってしまうぐらい、おかしみすらあるぐらい極端に演技します。それに対して兄の十郎は、室町時代には主役を張っていたのに江戸時代になると、その荒事の芸を強調するため対照的に弱々しく優美な演技をする、そういうベクトルが働くわけです。いわゆる和事(わごと)の芸のような形になっていきます。
それはそれとして、曽我狂言の元になったのは敵討ち事件という事実です。ところが、その事実がはっきりと分からないように隠蔽された可能性があります。分からないことや謎があまりにも多いのです。謎が多いとどうなるかというと、芸能作品化しやすくなります。いろいろとこねくり回しやすいのです。まず、鎌倉時代の文学作品の段階で仏教思想が入った物語、真名本の『曽我物語』が作られます。そこに弟の五郎が兄の十郎よりも豪胆である、といった人物造形がみえています。
室町時代になってから、さらにいろんなエピソードが加えられて、新たにアレンジされた仮名本の『曽我物語』が作られるようになると、舞台芸術化する動きも起こってきます。鎌倉時代から人気があったものですから、それを能のような形にしたいという要望が出てきたわけです。それで能が作られます。まだ仮名本の『曽我物語』が作られるようになってそれほど時が経ってませんし、室町時代の写本もそれほど熟したものになっていないものですから、鎌倉時代にできた人物造形をある程度そのまま受け継いでいます。
確かに弟の五郎は豪胆だけれども、能では兄の十郎が主役になった作品が目立ちます。戦国時代末期になると、秀吉も家康も能が大好きで、自らも舞台に立って能を舞ったりしました。このように、能を享受したのは主に武士でした。江戸時代になりますと、今度は庶民の人気を集め、庶民が鑑賞する、そういう芸能として歌舞伎や人形浄瑠璃ができてきます。
さらに、もっと分かりやすく、要するに教養人じゃなくて、一般大衆に受けるようなアレンジをもっと加える、というようなことが起こってきます。
弟の五郎が豪胆だということを究極まで突き進める、そういう芸が元禄時代に生まれます。『寿曽我対面』というのは、それの一つの典型です。五郎のような豪胆さをさらに押し進め、勇猛ぶりを見せる芸が荒事(あらごと)です。見栄を切って、どちらかというと、私も歌舞伎座で見たことがありますが、駄々っ子のような演技をするのです(笑)。
豪胆というよりも思わず笑ってしまうぐらい、おかしみすらあるぐらい極端に演技します。それに対して兄の十郎は、室町時代には主役を張っていたのに江戸時代になると、その荒事の芸を強調するため対照的に弱々しく優美な演技をする、そういうベクトルが働くわけです。いわゆる和事(わごと)の芸のような形になっていきます。
まさに、人物造形に妙ありですね。
それが拍手喝采を受ける。しかも『寿曽我対面』というのは、敵役の工藤祐経、曽我兄弟の父親を殺した敵です、その祐経は座長が務める重要な役になっています。祐経は人格者じゃありませんが、非常に有能で、政治力もあり物事もわきまえた人間、というふうに人物造形されている。
敵役だったら憎々しい形にするべきなのに、そうではない。舞台の全てを束ねているのは祐経だといった形にする。最後には富士の狩場への「切手」を正月のお年玉代わりに曽我兄弟に投げ与えます。「切手」というのは、葉書に貼る切手ではなく通行手形(切符)です。実際に歌舞伎で使うのは、縦15センチ横10センチぐらいの板です。それを曽我兄弟の前に投げます。通行手形切手というのは「切ってください」という掛け詞、洒落なのです。
座長が演じる堂々たる祐経は、やがては殺される運命にある。分かった上で通行手形「切手」を渡すという、その心意気みたいなものを見せる。そういう役に変わっています。そうなりますと、事実としては最終的に工藤祐経は曽我兄弟に惨殺されますが、その悲惨で残酷な事実が祐経という人物を大きく見せることによって緩和される。曽我兄弟がめでたく本望を成就することの方が強調される、そういう筋立てで観客に嫌な思いをさせないのです。そこで、正月のめでたい出し物になったのです。
敵役だったら憎々しい形にするべきなのに、そうではない。舞台の全てを束ねているのは祐経だといった形にする。最後には富士の狩場への「切手」を正月のお年玉代わりに曽我兄弟に投げ与えます。「切手」というのは、葉書に貼る切手ではなく通行手形(切符)です。実際に歌舞伎で使うのは、縦15センチ横10センチぐらいの板です。それを曽我兄弟の前に投げます。通行手形切手というのは「切ってください」という掛け詞、洒落なのです。
座長が演じる堂々たる祐経は、やがては殺される運命にある。分かった上で通行手形「切手」を渡すという、その心意気みたいなものを見せる。そういう役に変わっています。そうなりますと、事実としては最終的に工藤祐経は曽我兄弟に惨殺されますが、その悲惨で残酷な事実が祐経という人物を大きく見せることによって緩和される。曽我兄弟がめでたく本望を成就することの方が強調される、そういう筋立てで観客に嫌な思いをさせないのです。そこで、正月のめでたい出し物になったのです。
受験生や学生へのメッセージをお願いします。
自分自身が「これは大好きだ」と思うことを見つけて、その道に邁進してほしいと思います。ぶれないことは大切ですが、あらゆる事態に柔軟に対応する力も身につけてほしいです。そして、「歴史学は暗記の学問ではない」ということを知っていただきたいと願っています。
PROFLE :
坂井 孝一
[好きな言葉]
塞翁が馬,一喜一憂しない,筋金入り
[性格]
明朗快活,ポジティヴ,思考の柔軟性,ぶれない,面倒臭がり,神経質,やや攻撃的
[趣味]
テニス・野球
[その他]
愛猫家
[最近読んだ本]
研究関連の専門書(とくに承久の乱・後鳥羽院関係)
[好きな本]
トーマス・マン『トニオ・クレ―ゲル』『ベニスに死す』,ニーチェの著作
[経歴]- 東京大学文学部国史学科卒業(1982年)
- 東京大学大学院人文科学研究科国史学専攻 博士課程修了 博士(文学)〔東京大学授与〕
- 創価大学文学部専任講師(1991年)
- 創価大学同学部助教授を経て、現在、同学部教授
- 『源頼朝と鎌倉』(吉川弘文館,2016年)
- 『源実朝―「東国の王権」を夢見た将軍―』(講談社,2014年)
- 『曽我物語の史的研究』(吉川弘文館,2014年)
- 『物語の舞台を歩く―曽我物語―』(山川出版社,2005年)など
ページ公開日:2018年01月17日